先日、落語の人間国宝である柳家小三治さんが81歳で死去したニュースが流れました。
小三治さんは型通り演じることに疑問を持ち、うまくやるより自然体・あるがままの姿を表現することに注力した方です。
「『形』を取り払い『中身』を吟味することが肝要、人間がわかんなきゃ落語にならない」と常々言っていたそうです。
曹洞宗の修行には『形(作法)』が事細かく決めれています。坐禅・法要の仕方だけではなく、食事・洗面・風呂・トイレの作法など日常生活にも作法が存在します。道元禅師様の言葉で『作法是宗旨』というものがあり「日常生活の立ち振る舞い全てが修行であり、この事が曹洞宗の重要な教えである」というものです。
一見、『形』を取り払う小三治さんと、『形』を重視する曹洞宗では正反対に見えますが単純にそうとは言い切れません。
私が思うに、小三治さんの言う『形を取り払う』とは「自分が持つ固定観念を取り払うこと」を意味する言葉だと思います。
逆に、曹洞宗の言う『形(作法)を重視する』とは「今までの自分のやり方・拘りから離れて、師匠・歴代の祖師様の形・作法を重視する」と言うものです。
両者は「自分自身の執着から離れる」という共通の意味が含まれていると私は思います。
しかし、ここからの話は小三治の落語と仏教とで違いが出てきます。
小三治さんは「形・固定観念を取り払い、次に中身・本質を吟味する必要がある」と仰っています。つまり落語・芸術の世界は【固定観念を捨てた後、自分で本質を考える必要がある】と言うものです。
一方、曹洞宗の教えは「自分の拘り・形を捨てて、仏祖のやり方を真似なさい」と言うものです。これは仏教では【自分の拘りを捨て、仏祖・師匠を信じ、型通りの修行(特に坐禅)をひたすら続ければゴールに辿り着く・悟りを得る】と言うものです。この内容だけ聞くと、仏教のほうが単純で簡単なもののように聞こえますね…。
今回は小三治さんの言葉と仏教の考え方を比較してみましたが、話がどんどん膨れそうなので今回はここまでにします。