萬年山 東陽寺

沿革

塩原太助

塩原太助は群馬県下新田から江戸に出てきました。当初は江戸で何をやっても失敗し、昌平橋で死のうとしました。その時、神田の炭問屋山口屋に助けられ、そこで22年間勤勉に働き成功した人物です。
この成功のきっかけは、今まで誰も見向きもしなかった土間に落ちた粉炭を、太助は山口屋さんからもらい集め、この粉炭をハカリ売りで売るという新しい商売を考えた結果です。一代で財をなした人となります。

塩原太助の業績

  1. (一)金比羅講燈籠 香川県丸亀市
    金比羅信仰と航路標識を兼ね、天保9年建立。八角型三段・約5mの青銅製燈籠
  2. (ニ)湯島の無縁坂の石畳改修 でこぼこ坂を石畳に主人山口屋より三十両借りて完成
  3. (三)天神平の常夜塔
  4. (四)榛名神社の玉垣
  5. (五)亀戸「天神の石灯篭」
  6. (六)「太助の茶かま」

落語家三遊亭円朝が人情「塩原太助一代記」愛馬「あお」の別れで当時の人々に感動を与え有名になりました。
東陽寺と塩原太助の縁は、炭問屋山口屋(山岡家)の菩提寺が当寺であったことに起因しています。山口屋さんのお墓より決して高くしてはいけないと末代に渡り恩義を感じていました。太助の墓の左角に手代さんの墓も立塔されてお守りされています。

昭和59年、塩原太助のお墓は足立区有形文化財に登録されました。墓の場所は墓地入口付近、六地蔵の前にあります。墓石の竿正面に十文字の引両紋があり、その下に塩原寿算居士とあります。

戸田茂睡

1629年生まれ、78歳まで生きる。江戸時代を代表する歌人で、当時上方では、近松門左衛門・井原西鶴、江戸では松尾芭蕉とこの茂睡が庶民の人気者でした。
平成4年、戸田茂睡の歌碑(都内最古の歌碑)は足立区の有形文化材に登録されました。歌碑のある場所は、正面玄関の横、モミジの木の根元にあります。

手向野碑 / 戶田茂睡歌碑

風の音苔の雫(しずく)も天地(あめつち)の絶えぬ御法(みのり)の手向にはして

「歌意」人間は死んでしまえば、日々に忘れられていきます。私の息子もやがて忘れられてしまうが、永久に絶えることない風の音や苔の雫を仏様の手向けとして安らかに眠るに違わない。ここは旅人がお供えをし、道中の安全を祈る仏様がまつられている手向野なのだから。
(昔、東陽寺は手向野という場所にありました。)

河村瑞賢

瑞賢は1617年・三重県の貧農の生まれです。13歳の時に江戸に出て、土木工事の人夫頭を行いながら徐々に資産を増やし、材木屋を営むようになりました。1657年、明暦の大火事の際に木曾福島の木材を買占め、土木・建築を請け負い莫大の利益を得ました。また幕府の公共事業に係り豪商にのし上がりました。

1671年、それまで幕府代官所などが管轄する年貢米を奥州から江戸へ輸送する際使っていた航路を止め、新しい航路、「東廻り航路」を開きました。さらに翌年には新しい「西廻り航路」を開き、この航路により輸送に要する時間と費用を大幅に削減しました。
1684年、淀川河口の治水工事を任され貢献しました。新井白石とも交友があり、晩年は将軍綱吉より若年寄を指揮する旗本に指名されました。1699年、83歳で死去。

東陽寺過去帳に載っている河村家は瑞賢も含めて51名。現在東陽寺にある河村家のお墓は、昭和の初めに建立されたもので、江戸時代のお墓は関東大震災で浅草の時代に破棄され、残念ながら残っていません。瑞賢本人のお墓は神奈川県鎌倉にある建長寺にあります。
平成4年、三十世住職が河村瑞賢を偲び瑞賢追悼碑の建立をしました。

十六羅漢

阿羅漢とは尊敬・施しを受けるに値する聖者を意味します。インドでは宗教において尊敬されるべき修行者をさし、原始仏教では修行者の到達し得る最高の位をさすそうです。

お釈迦様の弟子の中で特に優れた代表的な16人の弟子を十六羅漢、お釈迦様の亡き後、500人の阿羅漢が集められ、仏教をより広めていく事を誓い合った人々を、五百羅漢と呼びます。
羅漢さんの像は泣き叫んでいる姿、厳しい修行の姿、おおらかに笑った姿など表情豊かなものが彫られています。本堂西石段の上にある東陽寺の十六羅漢さんは修行の様子をあらわした阿羅漢像で、作成した仏師は友沢氏です。

永代供養釈迦堂

永代供養釈迦堂は、昭和3年・当寺が足立区に移転した時、関東大震災の合同慰霊塔として建立された御堂が前身です。平成2年、二十九世・三十世住職がこの御堂で永代供養(遺骨を50年安易)ができるよう再建しました。場所はお墓の入口付近の参道を歩くと、前方にお釈迦様が坐禅している御堂が見えます。その御堂が永代供養釈迦堂です。
この御堂は〈家族の少子化〉〈後継ぎの不足〉などの将来を見越し、関東大震災慰霊塔を改築したものです。台座に戒名など書ける板碑プレートを組み込める近代型永代供養墓として建てました。この釈迦堂の台座に戒名などを書ける構造は、平成4年に特許庁長官から実用考案を受けました。最近、後継者不足から永代供養墓が人気を受けている様ですが、東陽寺では平成初期から永代供養釈迦堂がありました。

釈迦堂の構造を少し説明すると、中は人が少しかがんで歩ける広さがあり、正面と左右に御遺骨を安置する棚があります。中央に合祀用の(五十回忌過ぎた仏様は土に戻ると言う事でお遺骨を撒く)穴があります。現在釈迦堂には30数名の家の御遺骨を安置しています。この中には東陽寺のお墓を持っていたお檀家様が、後継者問題で釈迦堂に移られた方もいらっしゃいます。
近年少子化が進み、残念ながらお墓を見守る後継者がなく無縁墓になる事が話題になることもあります。しかし東陽寺には釈迦堂という永代供養墓があり、お釈迦様が見守り、土に戻る五十回忌までお寺が責任を持って見るという形態があります。

最近、当寺もお墓の多様化・少子化に伴う世の中のニーズ変化等考えると永代供養墓の必要性と今後の重要性をつくづく感じます。しかし、たとえ世の中の変遷によりご供養の形が変わったとしても、お檀家様とお寺がいっしょになり、個人個人のご先祖様・仏様を敬い、家の繁栄を願うことに変わりはないと思います。東陽寺にはお檀家様と共に歩んだ400年の重みがあり、これからも新たな歴史を刻んでいくことでしょう。